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 この日記を綴ることとなったきっかけ。もうずっと前の話だ。
 世の中、随分と言葉は変わり、私も筆を執ることを面白いと思えるまでになったほど、ずっと前の話だ。
 私は、自分の記憶を消してしまいたかった。
 私は、愛する人をこの手で葬った。
 彼女が言うのでそうした。彼女の指示で、彼女を葬った。
 理屈が通っていないではないかと。そんなことは決してない。
 
 まだ、あまり鮮明に思い出す勇気がない。私はあの写真館を、以来訪れていない。
 とある写真家の娘を、私は好いていた。生きていれば、私の二つか、三つ上の。聡明で。私が出会って以降の彼女の写真の腕は、間違いなく当時日ノ本では屈指だった。
 ただ、なぜか人里離れたところにある洋館での経営だったこともあり、その名が日ノ本に知れ渡ることはなかった。そもそも、洋風の写真というもの自体が高級品であり、敬遠されていた。写真に写れば、魂が抜けてしまう、という迷信が蔓延る時代だった。
 私のもとに現物は残っていないが、私の姉の二十歳を祝う写真を撮るのに、半日をかけて洋館を訪れた。私は、このなりではあるが、好奇心も強く、カメラと呼ばれるマシンをこの目で見られることに喜びを覚えていたような気がする。 

 人力車は整備され始めた東京の町を出て、私たちを山道に運び出す。時折、道行く人に不思議そうな顔で見られるが、ハイカラな我が家ではよくあることだった。新しいものは、父が喜んで持ち帰ってくる。工場の増えた東京と比べ、田畑の多いあぜ道を通れば、父は本当にこんなところに写真館があるのか、と眉をひそめた。鉄道が通ったり、洋風建築の増えた東京に慣れてしまったためか、反対に、異国情緒すらあった。ドイツには森が多いと聞くが、このように鬱蒼としているのだろうか。

 母と姉は、朝早くから立派な着物を神経をすり減らして着付けていたから、疲れてぐったりとしていた。主役として撮られるのは、あなたですよ。そんな疲れた顔をすべきではないですよ、と、思わず声をかけたが、流された。私は着慣れないスーツにぎこちなさがあるというのに。
 結局、長い時間人力車に揺られるたびに、姉の腰の帯がよれて、また写真館で母が手を加えることになっていたが。
 
 館に着いて、私たち家族と、それを運んでいてくれた車夫たちは、荘厳な佇まいの洋館におののく。ああ、そうだ、と父は札束を取りだし、帰りもお願いできるだろうか、ここから東京は遠いんだ、と紙幣を握らせた。
 ノッカーを父が三度ほど揺らした。これは装飾的なもので、機能性はほとんどないのではないか、と私は苦言を呈するつもりでいたが、家人が現れた。
 私の姉より、少しだけ幼い女性であった。
「白河様ですね。お待ちしておりました。ご案内します」
 彼女は、よろしければどうぞ涼んでくださいませ、と車夫二人も招き入れた。丁寧な人だった。

 父は、洋館の装飾や壁の写真に気を取られながらも、ひとつ気になっていたであろうことを訊いた。私も、同じことを疑問に思っていた。
「今日の写真は、────先生がお撮りになるのかね?  それとも、きみが────先生かね」
 折り目までもが美しい絨毯の敷かれた大階段に向かって歩を進め始めた彼女は、少し寂しそうな声をして云った。
「父は、病で病棟におります。電報が間に合いませんでした。御足労おかけして、申し訳ございません。ほんの、二日前の話でしたから」 

 父は面食らったように、すまない、気を悪くしただろうに、とそれでも淡々と歩く彼女について行く。
「もし、わたしの撮影がお嫌でしたら、お写真の代金は頂戴いたしませんし、往復の車代もお支払いします。ほんとうに、ごめんなさい」
 階段の手前、こちらに向き直った彼女は罰の悪い顔をして、頭を下げた。
 見かねた私は、壁にいくつもかかった写真を見て、ひとつを指さして述べた。
「……あの写真はあなたが撮ったものでしょう?  でしたら問題ありませんよ。素敵な写真です」
「こら、善司」
 父の判断を仰ぎたかったであろう母に咎められるが、私は気にしなかった。
 目の前の少女は驚いたように私の目をじっと見つめる。
「どうしてお分かりに?」
「なんとなく、あなたの所作の丁寧なところが内包されているような気がしました。お父様の写真とは、少し異なりますね。あまり格式ばっていないというか、独創性がある」
 私の分析に、家族はあっけに取られていた。少女ははにかんで、わたしに撮らせて頂けますか、と尋ねた。
 

 

 これが、私と彼女の出会いである。
 あまり、思い出すとこちらの心が先に砕けてしまいそうであるから、私と彼女とのやり取りは、あまり詳細には書かない。
 洋館に、彼女はただ一人きりであった。彼女の父の腕を買って、約束をした客がほとんどであったから、彼女が電報を送って以降、人の足はまばらになっていった。
 というのを、なぜ私が知っているのか。以前も少しだけ書いたが、私は彼女に弟子入りしたからである。カメラという文明の利器に、心を奪われてしまったのである。私の初めて撮った写真というものは、それはもう本当に酷いもので、ただシャッターを切るだなのに、こんなにも人によって違うのかと。
 月に一度、二日ほど、住み込みで彼女にカメラを教えてもらっていた。私は当時学生の身分で、そう毎日通える状況ではなかったのである。
 しかし、彼女の父が死んだと報せがあったときは、私も高等学校を葬儀に加わった。
 正真正銘、ひとりきりになってしまった彼女に唯一寄り添える存在は、私だけであった。
 一年と、少しほど。いつものように私が写真館に訪れた日だ。彼女以外の人間に聞こえているのかも怪しいノッカーで音を鳴らせど、彼女からの出迎えはなかった。
 扉は施錠されておらず、私以外の侵入でさえも許した。

  嫌な予感がした。いつもの、撮影室へ向かう。彼女が私に薦めたかかとの高い靴で、音の半分吸い込む絨毯を踏んで。
 最奥の部屋、上質な扉を押して、私は言葉を失った。
 赤い鮮血のようなワンピースで横たわる彼女と、傍に、もう一人。
 魑魅魍魎と呼ぶべきか、曖昧模糊な存在と呼ぶべきか。

 黒の布に包まれた、例えるならば、怪異。
「あなたは、誰ですか」
 きゅ、と締まる喉から漏れた言葉に動いたのは四つの首。正しくは、大判カメラ。
 うちひとつは間違いなく、私が使っているものだった。
 善司、そう声が聞こえる。誰のものでもない、初めて聞く声であった。カメラに包まれた彼女は微動だにしない。
「善司。どうか驚かないで」
 声の主がわからず、私はあたりを見回す。受け入れたくない彼女の姿から目を逸らすように。息が詰まった。
「お嬢様は、先ほど息を引き取られました。もうずっと、肺が悪いようでした。お父様と同じです」
 おそらく、結核だった。当時は一度かかればどうすることもできなかった。私がいないこの一ヶ月のあいだに、彼女の身体を蝕んでいったのだ。
 私はそっと、彼女だったものに近づく。傍で動かないカメラの怪異は、死んだ彼女と同じ顔をしていた。目は閉じられ、置物のように立っているだけ。
 声の主はこの怪異ではない。違う。
「わたくしです。お嬢様の、いえ、貴方のカメラです。人の魂を食らう道具に、魂が宿るとは、なんともあいろにっく、ですね」
 冗談じゃあない。あなたには人の心がないのか。私は無機物に訊ねた。当たり前のようにあったものがなくなった私は、どんな表情をすればいいのだ。彼女に写真を撮られるたびに、下手くそな笑顔だと揶揄される私は、今は笑うことさえできない。ただおかしくて、おかしくて、信じることができずに、涙ばかりが溢れてきた。

​ 触れる。まだ、少しだけ体温の残るいつもより白い肌。彼女はきっと、生きているかもしれない。私は優しくその肩を揺すった。

「先生、──先生、あなた、言ったでしょう。秋にはお父様のご友人の画廊に一緒に行きましょうって」
 返事はなかった。
 ただ、私をじっと、閉じた目で見つめるような、同じ顔が憎たらしかった。怪異は、ただ、そこに在るだけであった。
「わたくしは彼女の死期を悟っていました。お嬢様の小さなときから、一緒におりましたから。仕方がないことです。ですが、わたくしも、魂を手に入れた身。ただでお嬢様を見送るわけにはいきません。写真は、わたくしたちの子どものようなもの。手放したくはありません」
 お嬢様を現像しました。まだ、彼女のからだは眠っているようです。それに、腕も動かせそうにありません。ですから、我々はお嬢様を今後支え続けます。写真館の歴史はこれで終わりますが、我々の歴史を失うことは、とても恐ろしいです。異国の国へ運ばれ、ここに辿り着くまでの道のりよりも恐ろしいです。お嬢様を失うことは、もっとも恐ろしいです。
 善司、お願いがあります。彼女の遺体を、埋めていただけないでしょうか。彼女の記憶に触れる作品を、燃やしてはいただけないでしょうか。我儘だとは承知しています。生まれ変わったお嬢様がもし、目を覚ますようなことなあれば、彼女が撮った写真を見て、思い出してしまえば、このからだは全てを失った悲しみに自死を選ぶに違いありません。

 彼女の記憶は消しました。お父様が亡くなったこと。自分も病を患い死んでしまったこと。写真館に訪れる人がいなくなってしまったこと。

​ 辛いことを思い出してほしくはないのです。ですが、我々に芽生えた自我は、ここに居たいと思ってしまっているのです。かけがえのない思い出ばかりです。幾分か、お嬢様のために消してしまうことにはなりますが、それでも、わたくしたちは、​​この写真館が大切

です。誰もいなければ取り壊されるか、新しい買い手がついてしまうかもしれません。そのために彼女を現像したのです。ただここに在るだけの、彼女を。
 お願いします。お嬢様をあなたの手で埋葬していただけませんか。
「自分が、写真館を継ぎます。それでは、駄目ですか」
「善司、あなたは、あなたのお父上の跡取りでしょう。……いけません」
 肩書きなんて、馬鹿らしい。この場所が大切なのは、私も同じだった。
 しかし、発した言葉とは裏腹に、ほんとうの彼女がいない日々に、私は耐えられる自信がなかった。いっそのこと、全て燃やして忘れてしまいたかった。
 これは、哀れな私のエゴであった。

 彼女を埋めた。
 彼女の撮った写真を燃やした。
 私の写る写真もあった。どうしても、どうしても燃やせなかった写真たちは、彼女の目に触れないところに隠しておいた。あの怪異が、動くやもしれないことを考えて、隠した。
 電報を打った。写真館は閉館すると。
 最後に、灰になった彼女とその遺作に花を添えた。
 私は正門を閉じた写真館に、二度と訪れることはなかった。
 すべて、忘れてしまいたかった。
 忘れられなかった。

 忘れるために執った筆は、今、記憶を綴っている。
 
 彼女はずっと、私の中で生きている。
 
 
 (優しい笑顔の少女の写真と、赤い紐が挟まっている。)

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